人の原始的な「かたち」が、真っ白なタマゴのようなものだとすると、そこからまず背の高さ、体型などによって外面的な「かたち」に削られる。でも、この状態では「顔」がない。
本当にパーソナルな言葉を語るようになって初めて、人ははっきりとした「顔」を持つことになる。ここでいう「顔」とは、その人の特徴を表す比喩である。
自分の「顔」を持つということは、同時に自分の中のある可能性を捨てることにもつながる。「顔」を持たないのは実は自由なのだ。状況によってどのように振舞っても構わないというのは、なかなか魅力的だ。
しかし、その甘い汁を吸うのに慣れすぎてしまうと、人は徐々に「見えない人間」になってしまう。ちゃんと対価は払わなければならないのだ。
僕はこれまで、身近な人の前では人並み以上にはっきりとした顔を持っていたにも関わらず、世間一般に対しては顔を隠すようなことをしてきた。「のっぺらぼうの仮面」をつけたりはずしたりしていたようなものだ。
なぜ「のっぺらぼうの仮面」を重用することになったのか?
理由の一つとしては、はっきりとした「顔」ができるまでは、「本当の顔」を見せたくないという気持ちがあったのかもしれない。これは、ある種の完璧主義に由来する。
もう一つの理由としては、「顔のない」立場を望んでいた部分もあった。「顔」を持つことで、良くも悪くも外部に干渉される機会が増える。僕は特に20代の頃は外部に干渉されるのを極端に嫌っていた。
そうやって甘い汁をずいぶんと吸ってきたツケは、今になって払うことになった。
「おまえは誰だ?」
そう世界から問われる機会が増えてくる。ここで、徹底して
「私は何者でもない。放っておいてくれ!」
と答えてしまった場合、世界はそれを最終回答と受け取るかもしれない。
「何者でもない人間」、「見えない人間」としての人生を許可されることを心地良いと感じる人間は、自由気ままな余生を送ることができる。
でも、僕はやっぱりそうではない。
はっきりとした「かたち」を持ち、「顔」も隠さずに生きていきたい。
「おまえは誰だ」
という問いに答えられるようにならないといけない。
そのためには、自分の思いを自分の言葉で語り、その言葉に対して誠実に行動していく必要がある。そのとたんに、多くの人が批判を始め、あるものは去っていくかもしれない。でも、それは好きにさせれば良い。
自分の中の「調整弁」をはずせるかどうかは、ほんの一押しするかどうかにかかっている。
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15 年前
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