2010年1月23日土曜日

創造のための出力

出力の重要性は、昨年度、最も身にしみて感じたことの一つだ。

僕の考えている研究テーマは、「農村地域における知識の移転や創造をIT技術により支える手法を確立し、地域の計画作りに役立てる」というような主旨のものだ。これは、少子高齢化により、先人の知恵が失われつつある状況に対する危機感に由来する。特に農村地域ではそれが顕著である。

農村地域では、作物栽培や地域資源管理、意思決定、祭祀などの多くの面で、様々な知恵やノウハウが駆使されている。しかし今、都市部に先駆けて進行している高齢化により、それらの”知”の消失が進行しつつある。これは今後10年もすれば、かなり危機的な状態になると思われる。

もちろん、すべての知恵が次世代にとって有効だとは言いきれない。例えば企業組織内では、最近の環境の変化スピードは激しいし、少し前の知識が今は役に立たなくなるということも多々あると思う。しかし農村地域は、我が国の農業という、食料生産を支えている地域であり、その衰退は今後の世界情勢の中で致命的になりかねない。

日本人は、創世神話の世界で、国の大地や自然とともに生まれたとされている。自然と一体化して行う農業は、長い間、最も基本的な産業だった。その国土との結びつきが失われていることが、今の日本の停滞や精神の荒廃を招いているのかもしれない。国土や自然との一体感を日本人にとっての一つの精神的なベースとするべきだと、”国体の本義”でも書かれている。

さて、僕は自分自身、出力が欠けているということに昨年度を通じて気づいたわけだが、特に自分にとって根本的かつ主体的な、”自分自身の”言葉の出力が問題だと考えている。仕事などでやらざるを得ない出力は、それ相応には行っている。

知識を積極的に入力し、それを自分なりの思想なり世界観なりにまとめるという作業は、自分の内部ではむしろ行っている。しかし、それを出力してこなかったのはなぜなのか?その原因の一つは、自分の知識を投げ込むための”場”というものを持たなかったことにあるのではないかと思う。僕は昨年度までの2年半、関係よりも自己を重視する環境に身を置いていた。

研究テーマを掘り進むにあたって、野中郁次郎氏が唱えた”知識創造理論”をベースに、知識とはどういうものなのか?どのように獲得され、進歩していくのか?について考えている。そのために改めて振り返っているのが哲学だ。

哲学者達は、世界の本質や自分の認識について、さまざまな角度から考察を続けてきた。今哲学の歴史を振り返ってみると、ギリシャ哲学などでよく言われた、世界の”本質”がなんであるか?とか、主観と客観が一致するかどうか?などという問いは、正直自分にとってはどうでもよい話だ。むしろ、世界には本質や超越的・絶対的なものなどなく、個々の人間の認識によって作り上げられたものだというような、ニーチェやフッサールの方に同意する。

これだけだと独断的な感じになってしまうのだが、個々人の認識を、ある”場”を通じてぶつけ合い、その中で共有され、浮かび上がってくるものに、知識の進歩や真理に近いものが出てくるという考え方が、”知識創造理論”の元になっていると思う。

このあたりのことを考えているうちに、出力により目指すものは2つに分けられると思えてきた。

一つは、入力し、蓄積したものを自分の言葉で構成し、発するという自己表現的なもの。そしてもう一つは、ある”場”を他者と共有し、個々人がそれぞれの出力を行い、ぶつけ合うことで、自分の持っている知識に客観性や評価を与え、それを通じて知識をブラッシュアップするというものだ。

後者は非常に重要であると思う。例えば、僕は昨年度までは、ほとんど自分の自由意志で、学ぶべきものを選択し、入力を行ってきた。しかし、正直に言って、何か物足りないものを感じるようになったのも確かだ。知識が自分の中に血肉として格納されているという確信が持てなかったのだ。

それは、知識を吐き出して共有しながらブラッシュアップする”場”が、相当に限定されていたことが原因なのではないか?

自分にとって今後積極的に意識すべきことは、このような”場”を持つことだと感じている。つまり、”創造のための出力”を積極的に行っていくことだ。それによって、自分の入力を確固たる知恵にしていけるのではないかと思う。

しかし、適切な”場”を持つというのは実はなかなか難しい。知識レベルや興味対象、興味範囲、そして知識の成長スピードなど、さまざまな要素がフィットする相手でなければ、うまく機能しないと思う。

本ブログはそういった一つの”場”だと考えている。こういった”場”をいくつ持てるかが、人間の成長を大きく左右すると思う。実はすごく貴重で、ありがたいことなのだ。

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